伝染病舎は避病院と呼ばれ、非病院とか死病院などと陰口され、病院というよりは、ただ患者を収容する施設といってよい状況にあった。このような遅れた対応は財政的な問題もあり極めて小額の衛生費からもうかがわれ、根本的な対策が断行されることは困難であった。伝染病の流行がピークにさしかかっていた明治三一年の木場村伝染病舎事務所の事務日誌によると、一〇月一八日午後、赤痢患者八名発生。直ちに隔離室の設備を命じられ、建物の修繕に着工起工は十八日夜。一〇月二〇日正午に病舎落成、患者七名を収容、看護人は女性二、男性二名の計四名。医長萩野練平、医員兼調剤掛伊藤原亮が任命された。事務監督として西蒲原郡長代理が十九日来村、朝から終日、隔離室に出張、事務員山際俵蔵を督励し、設備に尽力した。十九日以来、村長代理として助役富所彦吉が隔離室に詰めきり指揮をした。内野分署長西村警部は巡査部長一人と巡査二人を従い設備事務、患者の収容等のことに尽力、巡査一人が隔離室詰めを命じられ赴任した。