この時期の村の行政のうえで小学校の維持と推進が大きな比重を占めていたが、もう一つの大きな対策を迫られていたのは伝染病の発生、流行に対しての対応策であった。新潟県では明治二七年から赤痢患者が増加し始め、二六年には六三人だった患者が、翌二七年、一三六五人、二八年、二九六二人、二九年横田切れの発生の年には、三七六七人、三〇年、前年に続く大水害のあった年、七六七四人、三一年、九八二〇人、三二年、一万三七九二人と増加した。死者も多く患者の二割前後に達した。流行の原因としては、大水害によるほか、上水道がなかったこと、患者を隠したり患者と交流していたことが上げられていた。県では伝染病予防規則、伝染病隔離病舎隔離所設置及び管理規則、衛生組合規則などを制定改定し市町村を通じて対策を進めた。しかし大量の患者を抱えた村の衛生対策は不十分であり、流行にあたっては消毒の徹底のほか、患者を伝染病舎に隔離するしか方法はなかった。